RENGA (Linked Images)




絵画や詩の創作はきわめて個人的なモノローグであると、世間一般にはそう信じ
られている。それは一面では正しい。しかし一方で、創作は集団的な「影響のネ
ットワーク」の中にある。影響は、ときには顕在的な引用だったり、潜在的な作
風の継承だったり、テーマの呼応だったりする。作品の多くの部分は、作者が思
う以上にダイアローグによって成り立っていると私は考える。

ディジタル技術を創作の手段とするわれわれの時代の画家達は、かつてのどんな 絵画技法よりも、簡単かつ自在に絵を引用する方法を手に入れたと言える。しか もディジタル画像通信技術は、遠く離れたアトリエをひとつにマージする。われ われのプロジェクト「連画」は、ディジタル技術のこの特性を駆使することによ って、引用する楽しみ、引用される楽しみがどう加速されるかを試みる実験でも ある。

連画という造語は、日本の伝統的な定型詩の様式である連歌に依拠している。REN と発音する漢字「連」はlinkを意味する。GA「歌」はpoemを意味する。同じGAと 発音される漢字「画」は、pictureを意味する。歌を画に置き換えて、連画という 言葉が生まれた。連歌は、次々と異なる作者が、句を付けていく一種のゲームと も言える文芸のジャンルである。歌人たちは、連結の工夫や、連想の飛躍を競い、 楽しんだ。まるで車窓から眺める景色のように、流れるイメージのドラマが成長 する。また、俳句が連歌の一つの句から独立した様式であることからわかるよう に、連歌はコンテキストと同様に、個々の句の作品としての独立性も重んじられ る。

 われわれの連画は、連歌から多くのことを学んでいるが、その最も大きなもの は、作品が作者だけのものであり、不可侵であるというドグマを見直すことであ った。相手の作品の独立性を尊重することと、相手の作品を勝手に自分の要素と してモディファイすることは、決して背反することではない。 しかしながら、1992年の4月から始まった中村理恵子と私の最初のセッションで、 われわれは「作品は作者の所有物である」という思考から、なかなか自由になれ なかった。そのために、相手の作品から情報を削除することに躊躇し、しだいに 情報が蓄積し飽和する結果となった。われわれは、最終的なひとつの作品をめざ して、一つのキャンバスに二つの筆を入れているのではない。そういう反省から、 1992年12月からの二度目のセッションは、よりダイナミックな展開を呈した。

ときには前の作品と断絶するほど飛躍的な、引用のバラエティーを模索しはじめ た。電子メールで送られてきた画像をペイントシステム上でデフォルメし、別な 意味をもつ画像の一部にしたり、画像をプリントアウトし、それにフィジカルな インクで加筆し、再びスキャナーで取るといった、故意に冗長な方法も試みられ た。また、途中からボッティチェリの作品群を暗黙のうちに互いに意識しはじめ、 それが作品に影響したりした。明らかに自分の絵でありながら、決して自分だけ のモノローグでは描けない作品に、われわれは興奮した。

 サイバースペースは、長い間慣れ親しんできた時間と距離の感覚をどんどん消 し去っていくが、それ以上に、自分と他者の間の固定的な境界線を消失させよう とすることを、この試みが暗示しているように思う。

安斎利洋





Toshihiro ANZAI and Rieko NAKAMURA