まとめ

『意味伝達を放棄したことば』

 

安斎利洋

 世の中には、ほんの些細な行き違いによって本来仲良くなるべき人の出会いが阻害されることがあるものだが、太田幸夫氏との出会いも典型的な不幸型であった。

 「絵ことば」と呼ばれるプロジェクトをNTTの木原氏から提案されあれこれプランを練っていた頃、ストロイエの武山良三氏から「ロコスの太田先生に紹介しましょうか?」というメールをいただいた。人工言語ロコスの筋の良さはあちこちから聞いていたので、その偉業をなした方とお話することを楽しみにしながら、1998年の1月、私(安斎)と中村理恵子は武山氏とともに青山にある太田氏の事務所へ向かった。

 「このあたりで昼飯を食べるには、12時を回ってから動き出すのでは遅いんです」太田氏はそう言うと、名刺交換もそこそこにわれわれを近くのレストランへ連れ出した。その名刺交換が、不幸プロセスの地雷を決定的に踏んでしまったのだ。中村理恵子の名前の肩にあった「アーティスト」という文字をとらえて、いわく「ほーう、いまどきアーティストという職業があるんですか」

 商業美術家と現代美術家がたまたま同席して反目し合い、おなじようなつまらないフレーズが飛び出すのを何度も耳にしたことがあるので、一種の懐かしさこそ覚えたものの、普段から好戦的でない私がこの程度の言葉で切れることはない。あまりピンとこないランチと、あまりピンとこないアート対デザイン論に辟易しつつ、「僕らは、語彙と文法がそこで自ずと生じるようなメディアを作り出したいと思っているのです」というメディア・アートの話が化けていって、つい「語彙や文法を一人でデザインしてみなさんにさしあげるというほど、アーティストは不遜ではない」と言い放つに至って、不幸プロセスは決定的な段階に突入したのだった。

 私は、多くの人が集まってコミュニケーションをしているうちに自然に言語が発生する、と考えるほどのんきなわけではない。ことばは、規格や法規と同じくらい政治的なパワーや、カリズマティックな引力に先導されなければ形をなすものではないと想像している。

 同時にまた、あらかじめ周到に準備された言語があったとして、それを生き生きとしたやりかたで人々が用いるということもありえないと思っている。人が言語に喜びを感じるのは、言語を用いたときではなく、言語そのもののシステムに変更を加えたときだからだ。情報工学系の人間は、あらかじめコードを共有した二者間でないと正しい情報通信は成立しないと考えがちだが、自然言語の、しかもアーティスティックな言語的通信においては、コードそのものの破壊と再構築が通信内容なのである。詩人は良い話などに興味はなく、良い言いまわしにだけにすべてを託す。あらゆる良い言いまわしがレディメイドされた言語を用いて、誰が詩を書くのか?

 太田氏との出会いは、しかし絵ことばにとって幸運であった。「われわれは一意的な意味伝達の道具を作ろうとしているのではない」というスクラムは、そこで形成されたといってもいいからだ。われわれの絵ことばシステムでは何も正しく伝達できないし、ある意味のあるセンテンスを絵ことばに翻訳可能である場合はきわめて少ない。しかし、デジタル画像と言語を結びつけようとした多くのシステムの中で、これほど奇妙な喜びを秘めた類例がないのは、意図してイディオムや文法が固まらないような方向を注意深く選びつづけながらプロジェクトを進めてきたからだと確信している。

 もっとも、ありがちな形に固まらなかったのはわれわれの功績ではなく、多くのコラボレーター達がより多くの喜びを絵ことばシステムから得ようとして選んできた直感の集積というべきだろう。その痕跡は、ともするとたんなる形態のコラージュに陥りながら生まれた、いくつもの吃音、偶発的なトートロジー、奇妙な風景、ここにあるたくさんのアトムとそのコンポジションの中に読み取ることができよう。

(1999年12月 安斎利洋)


 
 

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