■中国という世界

さて、話を中国の方へ持って行きましょう。ただ、ここで中国と言ったって実際には 私は北京にいるので北京のことが中心になります。
それと一つ先に言っておきたいことがあります。それは、中国以外の地点からの観測 では確かに「中国」というものは存在するのですが、この北京という城市(=都市) へ紛れ込んでしまうと途端に中国というものを見失ってしまう、ということです。 それはこの中国の社会の構造が、その時間と空間の広がりがあまりにも大きくて複雑 な様相を持っていて、とてもじゃないけれども現在私たちが使っている「国家」とい う概念の中では収まりそうにないからかもしれません。
この辺にどうも中国というものを考える場合の落し穴がありそうです。

実際にここで暮らしてみると、自分自身は「何者か?」を考えて、自分が何処に位置 するのかということを定位すること、これがそう簡単でないことに気づきます。
中国人自身にしたって自分達のことを中国人と認識する以前に、北方人か南方人かと いう大きな区別があって、次に北京人か上海人か広東人か四川人か東北人等々のカテ ゴリーがあり、話す言葉も食べるモノも習慣も歴史も文化も違います。
また地元かそうでないかによっても峻別されます。
特に北京の場合は、「老北京人」が最近北京へ流入してきた新住民を「外地人」とし て見下す様はなかなか凄まじいものがあります。
さらに漢族であるか満族であるか回族であるかその他の少数民族であるかも重要かも しれないし、加えて「華僑」の存在もあります。

中華世界では、これにようやく「外国人」が加わります。
それも東方人と西方人、それも 歴史的に中華文化圏と交渉を持った地域かそうでな いのか等々が問題になって・・・
考えていると頭が痛くなります。

この階層構造が、きれいなカテゴリーツリーをなしているのではなくて、重なり合い ながら編み込まれているのですから、これを理解しようというのは大変なことで、そ れよりもこれは理解するということを越えた一つの世界の条件なのかも知れません。 最近では、私はそう考えることにしています。
そして、その世界を構成しているのは、人ひとヒト。
全く13億人なんて言う途方もない数の人々が犇めいて暮らしているのです。

実際、世界の相似形としての「国家」というものが存在するとすれば、それは中国以 外にないでしょう。
ですから、中国という世界を考えることは、同時に世界を考えるということと同じく らいの意味を持つ可能性を秘めています。
世界の中に中国があるのですが、中国は世界を包含してもいるのです。


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